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厨黒 - ちゅうくろ -

"厨"ニ病に冒された男が"黒"歴史を綴る、そんなブログ。

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すれ違い恐怖症



 誤解や思い違いなどは非常に苦手意識を持っている。というのも、常日頃から誤解したりされたりが当たり前のようになっているからだ。

 こういうものは避けようと思って避けられるものじゃない。舌の周りが悪ければ口頭でいくら説明しようとも聞く耳持たないことだって当然ありうる話で、文章に起こしても字が汚ければ理解されないし、文章そのものができてなければ読むことさえも困難だ。

 単純な話でも誤解はある。

「私は○○が好きだ」

 など、とりとめのない話題を出したとして、相手がどう思うか。

「じゃあ、○○以外は嫌いなのか」
「××が好きな私への嫌味か」
「私はその○○なんて嫌いだ」

 そのように曲解されないとも限らないし、そういう解釈をされてしまうと、もうフィルターが掛かってしまったかのように、次の言葉、次の言葉が違う言葉として伝わってしまう。誤解が誤解を連鎖していってしまう。なんと恐ろしいことか。

 最近でもこの手の話題で「子供に『いただきます』を言わせるな」というクレームの話を耳にした。

 この実情とクレーム側の言い分はこうだ。

 ことは学校給食の件で、生徒の保護者側は学校に対して給食費を収め、その金で生徒、つまり子供に給食を配給している。とどのつまりは金を払って支給されたものなのに、学校側は生徒たちに『いただきます』と言わせていることがおかしい。そういう話だ。

 金を払ったら自分のもの。自分のものなのに頂くとは何事か。誤った知識を子供に教えているのではないか、という解釈もあるのだろう。本当にそのような解釈とすれば、これは大きな誤解だと思う。

 ものを食べるときに「いただきます」というのは単純に謙譲される意味とはまた違う。人間に限らず、大概の生き物は物を食べることで栄養を摂り、生きている。そして食べる物とは何かといったらやはり生き物になる。豚や牛の家畜は勿論、野菜だって生き物だ。

 生きているものから命をいただくから「いただきます」。給食を配給しているセンターに向けた言葉でもなければ、給食費を徴収している学校側に向けた言葉でもない。いただく相手は、目の前にある食事、すなわち命だ。他の命を奪い、自分の命にするのだから感謝をする。

 まあ、模範解答はこんなものだろうか。

 他にも、給食を調理してくれた人に対する感謝。給食の素材となった家畜や野菜を作ってくれた農家の人に対する感謝の気持ちを込めての「いただきます」という解釈もある。

 金を払ったのに「いただきます」はおかしい、という解釈もそもそも妙な話ではある。それはつまり金を払い、その対価に見合うものをいただくことに感謝することがおかしいということになる。金を払った側が絶対的に偉く、提供者が見下されているとも解釈できる。

 どっちが偉いという話でもないし、一方的な感謝が要求されるのは変な話だ。

 しかし、物事の解釈自体、人の思想にも依る。

 何故ものを食べるだけなのに感謝する必要があるのか。そう言われてしまえばそれまでの話で、それ以上話が進むことはないと思う。確かに、感謝というものは義務でも強要されるものでもないし、自分の心がそう思わないなら言う必要はないだろう。

 金を払った。だから食べる。感謝することはない。野生の動物は狩った獲物を感謝して食べているか? いいや、そんなことはない。だから「いただきます」なんて感謝する必要性を感じない。元々そういう思想なら理解されないだろう。だから何処かで誤解が生まれる。

 物事の考え方なんてものは文化、習慣でいくらでも変わる。

 自分の身近な話でもやはり考え方の違いでそういう誤解が絶えない。

 あるときある食堂で、金を払い、定食を注文し、「いただきます」と言い、ご飯粒残さず食べて、「ごちそうさま」と言い、食器を返したときに同席していた人に酷く笑われたことがある。

 未だに子供のしつけを守っている馬鹿なヤツだと言われ、ご飯粒まで食べつくす貧乏くさい馬鹿だとも言われ、あまりにも幼稚で思慮の浅い行為ばかりが目立つと指摘された。

 どうも、世間では感謝することは礼儀ではないらしい。

 自分の解釈している言動、行動には何処か世間のソレとは大きくズレているらしい。
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